ニュージーランドに来て、まだそんなに日が経っていないけれど、すでに“日本と違う”と感じることはいくつもある。
その中でも、毎日見るたびに不思議な気持ちになる光景がある。
それは、「ホームレスの人たちが、驚くほど堂々としていること」だ。
座ってる、寝てる、喋ってる。「普通にいる」という違和感
CBDのカフェ前、駅の横、スーパーマーケットの入り口。
彼らはそこに“いる”というより、“居て当然”のような空気をまとっている。
寝袋に包まりながらスマホを見ていたり、他のホームレス仲間とタバコを吸いながら笑っていたり。
道行く人に気まずそうにしているわけでもなく、むしろ「こっちが気にしすぎなのか?」と思うくらいに堂々としている。
最初は戸惑った。
日本では、路上生活者の人たちはもっと端っこに、目立たないように存在していたように思う。
でもここでは違う。中心街のど真ん中にいても、別に咎められないし、通行人も特に気にしていない。
誰かが近くのカフェでコーヒーを買い、隣ではホームレスが座っている。
その光景が、「あたりまえの日常」として共存しているのが、今でもちょっと不思議だ。
「何かください」と言わずに座ってる。それが逆に刺さる
さらに驚いたのは、積極的に声をかけてくる人よりも、何も言わずただ座ってる人のほうが多いこと。
日本だと「見ないでほしい」ようなオーラを出している人が多い印象だったけれど、
ここではまるで「ここにいるのが当然」みたいに、誰かに遠慮するわけでもなくそこにいる。
むしろ通りすがりの私のほうが、視線をどこに向けていいのか分からなくなったりする。
布団やレジャーシートのようなものを敷いて寝っ転がっている。
もちろんすべての人がそうじゃないけど、「ホームレス=隠れる存在」という価値観が崩れるような光景が、そこにはある。
自由なのか、放置されているのか
それを「自由」と捉えるか、「見放されている」と感じるかは人それぞれだと思う。
私も毎回考えさせられる。
ニュージーランドは基本的に「他人をジャッジしない文化」だと感じる。
「困ってるなら助けるけど、そうでないなら干渉しない」というスタンスが、街全体にあるように思う。
でもそれって、人として認められている自由でもあり、自分でなんとかしてねという放任でもある。
通りかかったとき、ふと目が合って軽く頷かれることがある。
そんな時は、「あ、自分は“見えてる存在”として認識されたんだな」と思う。
彼らの存在感は、決して“いないことにされている”わけじゃない。
でもそれが逆に、どうしようもない現実を物語っているようにも感じて、モヤモヤする。
どうにもできないけど、忘れないようにしたい
「じゃあ、自分に何ができるの?」と言われると正直わからない。
何もしないし、いつも見てみぬふりをする。
でも、この堂々とした彼らの姿を見て、毎回考える。
「生活ってなんだろう」「安心して眠れるってどういうことだろう」って。
たぶんそれだけで十分だとは言えないけれど、見なかったことにしないっていうのは、ワーホリ生活の中で私なりに大事にしたい感覚だ。
最後に:この国のもう一つの顔として
ニュージーランドは本当に美しくて、自然も街も人も魅力的な国だと思う。
でも、街の真ん中で堂々と生活するホームレスの人たちの存在を見ていると、
この国の“もう一つの顔”を見せてもらっているような気がする。
それは決して「マイナスの側面」だけではない。
多様性や、人としての尊厳や、誰にも邪魔されずそこにいていいという空気感。
そんなものがこの国にはあって、それを受け入れられるかどうかも、ワーホリ生活の一部なんだと思う。
この空気を知ってしまうと、たぶんもう元の価値観には戻れない。
でもそれでいい。今、私はこの国で「本当の生活」を見ている気がしている。
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