「お、味噌あるじゃん」
ニュージーランドに来て間もない頃、スーパーの棚で見つけた“マルコメくん”に、思わず声が出た。
懐かしさと安心感で、ほんの一瞬だけホームシックが和らいだ――そのときまでは。
値札を見た瞬間、固まる。
ああ、そうだった。ここは海外だった。
■ 醤油が貴族、味噌が宝石、納豆は幻
まず、日本人の生命線とも言える醤油。
日本では当たり前に置いてあって、むしろ余ってることすらあったのに、こっちではやたらと高級感を放っている。
キッコーマンですら、なんだか格式が上がって見える。
「日本の味=贅沢」っていう構図を、スーパーで何度も突きつけられる。
味噌も、もちろんある。赤味噌も白味噌も。でも手が出にくい。
日本では「味噌汁飲も〜」くらいのテンションで使っていたものが、
こちらでは「今日は覚悟して味噌汁を作ろう」くらいの行事になってしまう。
そして納豆。
もはや「見つけたらラッキー」「冷凍でもありがたい」レベルの扱い。
なんで納豆が“レアキャラ”になるのか、誰か本当に説明してほしい。
においがNGだとか、売れないだとか、いろいろ理由はあるんだろうけど、
日本人にとっては「冷蔵庫にあるだけで安心する存在」だからこそ、手が届かないのが地味に痛い。
■ 米は“主食”ではなく“嗜好品”に
日本人にとって、米は空気と同じ。あるのが当然。
でも海外のスーパーでは、たとえ「JAPANESE RICE」と書いてあっても、それなりの価格とハードルがある。
米を買うたびに、「あれ?これって別にステーキ買ってるわけじゃないよね?」と確認したくなるくらい、
もはや贅沢枠に近づいてる。
結果として、長粒米をアレンジして食べる日々が続く。
悪くないけど、やっぱりあのふっくらした日本の米が恋しくなる。
■ インスタントラーメンでさえ気軽じゃない
日本では「とりあえずラーメン食べとくか」くらいのテンションだったのに、
こっちで日本製ラーメンを買おうとすると、一気に特別な日扱いになる。
カップ麺も袋麺も、なんだかオシャレで高そうなパッケージに見えてきて、
「え、これってそんな高貴な存在だった?」と、ちょっと戸惑う。
だから結局、韓国系や中国系のラーメンに手を出すんだけど、
やっぱり日本のラーメン特有のあの“どこか懐かしい味”には敵わない。
食べ終わった後に「ちょっと違うけど、まあいいか」って、毎回自分に言い聞かせる。
■ 胃袋の中に“記憶”がある
こうして書いてるだけでも、日本の味が恋しくなってくる。
でもこの恋しさって、実は「味」そのものじゃなくて、その裏にある記憶なんだと思う。
味噌汁をすすると、実家の朝がよみがえる。
ラーメンをすすると、受験勉強の夜とか、友達と夜更かしした日を思い出す。
納豆を混ぜる音すら、どこか“生活の音”として自分に染みついている。
だから、たまに無理してでも日本食を買ってしまう。
価格じゃない。“帰れる場所”を少しだけ思い出すために。
■ 高くても、無駄じゃない。むしろ必要経費。
「高いなぁ」と思いつつ、それでもやっぱり買ってしまうときがある。
それは自分が“甘い”からじゃない。生活のバランスを保つために必要な選択なんだと思う。
海外生活は、日常のあらゆる部分で“いつも通り”が壊れる。
言葉も、文化も、時間の流れも。
だからせめて、食べるものだけでも「いつも通り」に近づけたくなる。
日本の味は、心のセーフティネット。
たとえ割高でも、それで明日をもう一日乗り越えられるなら、
それはきっと、無駄遣いじゃない。
おわりに
スーパーで日本食を見るたびに、毎回葛藤する。
でもその葛藤も含めて、きっとこれが「海外に住む」ってことなんだと思う。
買うか、我慢するか。
食べるか、懐かしむか。
今日もまた、胃袋と財布の小さなバトルが続いていく。
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